食の神様[磐鹿六雁命]
IWAKA MUTUKARINO MIKOTO
 食べ物は(いのち)があります。「頂きます」「ご馳走様」が、素直に口に出る時、初めて平和で、健全な生活が始まります。このホームページでは身近な食べ物文化を皆様と一緒に散策しています。食べ物に関する神様は各地に大勢おいでにになりますが、まずは神奈川県三浦市の海南神社の食の神様(千葉県南房総市千倉町の高家神社から分社、お迎えしたものです)。高家神社
を参拝いたします。磐鹿雁六命は、人皇12代景行天皇が日本武尊東征の後を三浦半島から安房・上総へ巡行された時、天皇の料理賄方を司った神として、食に関わる人々から根強い信仰を集めています。有数の三崎漁港を中心に歴史と食文化の里をウォーキングしてみてはいかがですか、きつと喜びの発見がありますよ。佃煮の神様のお社⇒

(三浦観光インフォーメンションセンター・0468−88−0588  資料協力・海南神社)

包丁は料理人の魂です。
四条流包丁式
境内には包丁塚があります。

里神楽・氏子達によって演じられています。
11月初未の翌申、酉の両日・里神楽奉納舞



佃煮
佃煮は日本全国いたるところで、伝統的な日本特有な食べ物として親しまれています。こだわりの素材で独特な調味と名人芸でつくる佃煮や市販の弁当のおかずや昆布、おかかなどが入っているおにぎり、近所のストアーで手軽に買える佃煮の名称は、東京の中央区にある佃の地名からきているのです。
佃煮は決して華やかな食べ物でなく、どちらかと言うと地味で実質本位のイメージが強いのです。栄養豊かなヘルシーな加工食品で、薄口、濃口の日本特有のお醤油をよく使いますが、甘口の佃煮もたくさんあります。保存性が高く、良く加熱されたものが多いので安心して食べられる食品として、食生活の中で大事な役割を果たしています。水産物や農産物、畜産物を原料にその種類も豊かです。嗜好調査や企業の情報をもとに、美味しい佃煮を歴史や物語、知って得する情報をまじえて随時ご紹介していきましょう。


身近な食文化
大師橋・東京羽田名産
大谷政吉商店さんの巻
 良心的な品には、その店の経営者や店主の人格が自然に滲みでています。今回、J@FNの記者の目にとまったのは、東京は大田区の(株)大谷政吉商店の貝類を始めとした佃煮。佃煮を炊いている場所は、東京と神奈川を結ぶ大師橋の東京側の多摩川の岸辺にあります。一寸と散策やドライブ、商用の帰りに立ち寄って、新鮮な佃煮を食べてみよう。安心して贈れる手軽なギフトにもよい。社歴は明治10年というからざっと120年を越える暖簾だが、四代目大谷社長夫妻は、常に新しい食生活の嗜好の探求に余念がない。つくり出される伝統の味覚が現代に生きている。美味しいものは、探し求めても食べたくなるもので、10年程前からどこからともなく大谷さんの工場を訪ねて、真心の味を賞味する人が増えてきました。その昔、お江戸への入り口「羽田の渡し跡」もそばにあります、渡し船もかなり大型であったとの説明板を読んでいると、行き交う往時の人々の歴史のぬくもりが感じられます。
穴守稲荷

羽田の渡し・由来
 古くから、羽田漁師町(大田区)と上殿町(川崎)を渡る「羽田の渡し」が存在していたという(現在の大師橋下流、羽田3丁目で旧城南造船所東側あたり)。
 この渡しは、小島六佐衛門組が営んでいたので、「六佐衛門の渡し」 とも呼ばれていた。渡し場付近の川幅は約40間(約80メーター)ぐらいで、「オーイ」と呼ぶと対岸まで聞こえたたという。
 その昔、徳川家康公が狩りに来た帰りに、お供の者と別れて一人でこの渡し場に来たところ船頭は家康とは知らずに馬のアブミを取ったという伝説が伝わっている。
 ここで使われた渡し舟は、20〜30人の人々が乗れるかなり大きなもので、この船を利用して魚介類、農産物,衣料品など,生活に必要な品々が羽田と川崎の間を行き来していた。
 江戸の末には、穴守稲荷と川崎大師参詣へ行き交う多くの人々が、のどかで野梅の多かった大森から糀谷、羽田を通り羽田の渡しを利用するため、対岸の川崎宿では商売に差しつかえるので、この渡しの通行を禁止して欲しいと公儀に願い出るほどの賑わいをみせていたという。
 また,明治後期から昭和初期にかけて、川遊びをする船も往来していた。
 物資の交流だけでなく,人々の生活、文化の交流など大きな貢献してきた羽田の渡しは、時代の変化とともに多くの人々に利用されたが,昭和14年に大師橋が開通したことにより廃止された。
 この大師橋は、さらに21世紀の躍進を目指す産業の架け橋として大きく生まれ変わった。新しく生まれた大師橋は、長さ550メートル、幅・片側3車線+歩道の上り下りの2斜張橋。
                (大田区の資料)
羽田の渡し