武装した漁師一族は情報収集と沿岸警備隊 ・佃煮物語は本能寺の変から始まる
 森一族は、漁師を兼ねた水軍の一方の旗頭だったと思われる。
戦国の世では他国の領地で漁をする場合には、ある程度の武装と護衛の船をだして操業しなければ危険な
状況であった。貿易商船も、武装をするか、水軍に守られての航海でないと海賊の餌食
となるので、海図を知った土着の水軍の助けを必要としていた。孫右衛門一族も漁業を
しながら商船を護衛し、貿易品の一部や金銀の報酬を受けていた。漁師は表向き、なか
なかの勢力を持った戦国の世ならではの武装した漁民集団でもあった。そのため他国か
らの情報や物品も手に入り、商人や武家との接触も多く、時代の読みも素早く捉えるこ
とができた。
 本能寺の変を逸早く家康に伝えた京都の豪商・茶屋四郎次郎との交流もあったと考え
られる。異変の情報を素早く伝えられた孫右衛門は、水路の確保と兵糧の用意をして、
家康一行の到着を待ち受けた。堺から宇治へそして近江を経て伊賀の山越えを、服部半
蔵などの忍者部隊に守られながら家康に孫右衛門も従った。
 伊賀越えの難を突破し、伊勢白子から岡崎まで森一族の手配した船で逃げ帰った。
山中では干物、煎り豆、勝栗などの忍者食と孫右衛門が用意した潮煮でスタミナを補給しての必死の逃避。
領地が見えてきた船上でやっと一安心した家康は、漁師の手料理の小魚や携帯した貝の塩辛、佃煮茶漬で
何杯もお変わりをしたそうだ。以来、森一族にたいしての信認はことのほか厚く、佃大和田村の漁師に
無運上極印札(無税・無鑑札)の特権を与え武家屋敷に出入自由とさせ、大阪方に対する隠密と献魚の役を
命じている。
 その後二代将軍秀忠のころ、江戸に招かれた佃の漁民に隅田川下流の干潟を下げ渡し、郷里の名前「佃」に
因み佃島と名付けた。定住した佃の漁民は、郷里の住吉神社(現在の田蓑神社・明治維新後改められた。それま
では住吉明神とか住吉大神宮と呼ばれていた)の産土神を祭った。田蓑神社の社記によると清和天皇の貞観11年
(869年)に建立伝えられている。また神功皇后が三韓征伐の帰途に、ここに立寄ったとき、佃の海士(漁師)が、
白魚を献上したので海の神として海士をまつるようになり、皇后の船の鬼板(船の屋根に鬼瓦のかわりにつけた
飾り板)神宝として伝えているとある。
   本能寺( 信長時代の本能寺跡は、2キロ程離れた場所にある) 神崎川 「時は今 歴史は変わる 本能寺」
 明智光秀の追っ手を交わした、神崎川の辺はいまも、災害時の重要な物資を運ぶ水路として整備され、 そして近隣の住民の憩いの場所となっている。
続く
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