腹がへっては戦ができぬ
 家康が武田軍に追われた浜松での逸話。
三方ケ愿の合戦に敗戦した家康軍は、逃げる途中、空腹に耐えかね、一軒の茶屋に立寄り、 そこで小豆の餅をほうばった。そこえ追ってきたのは武田軍、家康はあわてふためき 代金を払わずに茶屋を飛び出した。驚いた茶屋の老婆は数キロ先まで追いかけて、 家康を捕まえ、殿様が食い逃げするとは何事かね、銭を払えとえらい剣幕、家康は慌てながらも、 さすがは三河の婆さんと金子を手渡し、城に逃げ込んだ。老婆の茶屋があった場所を「小豆餅」、 老婆が餅の代金を受け取った場所を「銭取」と呼ばれるようになったとか。 現在、小豆餅の地名はあるが、銭取はバス停留所の名前だけが残っているとのこと。 浜松市役所観光資料課で説明してくれた。  話しは家康大阪脱出記に戻る、家康一行と言っても、供は甲州武田家の遺臣穴山梅雪とわず かな手勢だけ。必死の遁走が始まった。素早く連絡を受けた佃村の庄屋・森孫右衛門一族が、 かねてより非常食として保存してあった「潮煮」または「醤油煮・HISIONI」といって 佃煮の祖形ともいえる小魚の塩煮を笹の葉に包み、笊かごに詰め、携帯に便利なように一行 の食事を準備し、水路案内として共に加わった。道中、佃煮を非常食として最初に食べた歴史 上の人物は、家康公であったのかもしれない。
  
     大阪・田蓑神社  家康一行の活路が開かれた、水路 神崎川、  東京の佃島が佃煮名称の生誕地なら、そのご先祖様の「佃煮発祥由来の地」は大阪である。
東京都では災害時の非常食として、都知事の指令で佃煮、煮豆が出動する。災害時の都の予算 に確りと組み込まれ、緊急時の大事な役割を果たしている。