HACCP時代の食品加工と微生物
HACCPについての雑感(2)

東京水産大学食品生産学科教授 藤井建夫

加工場のHACCPだけでは困難な衛生管理
腸炎ビブリオやサルモネラのように発症に大量の菌を必要とする食中毒では低温管理などの手段によって菌の増殖を阻止することは重要な予防手段となる。しかし病原大腸菌O157のように少量の菌の摂取でも発症するものでは、事情が異なる。
O157食中毒の「予期せぬ」原因食品となったイクラ醤油漬けのように製造過程に加熱などの殺菌工程を伴わない食品の場合、原料段階ですでに汚染されていれば加工場のHACCP(たとえば低温管理)をいくら徹底してもそれによって食中毒を防止することは困難である。
このことは他の非加熱食品でも同様であり、今回たまたまイクラで起こったような事件は今後他の「予期せぬ」食品でも起こる可能性がある。アレルギー様食中毒も原料段階でヒスタミンが蓄積していれば加工段階のHACCPでは防ぎようがなく、その上流での対策が必要となる。
HACCPでは"From farm to table(農場から食卓まで)"の安全性確保が求められる。わが国ではこれまでHACCPは加工場への導入を中心に検討されてきたが、今後は養殖場や魚市場など原料段階の問題も重要となる。養殖場については水質管理や疾病対策はとくに重要であり、また魚市場については囲壁、土間置き、土足、魚箱、リフト、人の出入り、港湾の水質や用水などの課題が多く、EUの要求する衛生基準とは隔たりがある。
また食品の流れの下流ともいえる流通・調理・消費段階の問題も重要である。とりあえず取扱者への正しい食品・微生物知識の普及や、最終段階である家庭での食品の取り扱いについての教育が望まれる。

HACCPの経済的効果
危険因子 推定発生
患者数
避けられる数
(下限〜上限)
ボツリヌス中毒
ウェルシュ菌中毒
カンピロバクター中毒
サルモネラ(チフス菌以外)
ビブリオによる中毒(V.vulnificusを除く)
V.vulnificus中毒
赤痢
ヒスタミン中毒
A型肝炎
ノーウォークウイルス感染
ジガテラ毒
麻痺性見毒
その他の海産物中毒
アニサキス
広節裂頭条虫
ランプル鞭毛虫症
10
200
200
200
1,000
60
200
8,000
1,000
100,000
1,600
10
20
100
1,000
30
3〜5
100〜150
100〜150
100〜150
200〜500
12〜30
100〜150
4,000〜6,000
150〜500
15,000〜50,000
96〜200
〜1
〜1
25〜60
250〜600
15〜23
表1.HACCPの導入によって予防される疾病発生数(FDA)
HACCPの導入を損得勘定優先で考えるべきではないが、経済効果についても考えておく必要はある。米国FDAが22の小規模工場でのHACCP導入コストを試算した結果によると、GMP(適正製造基準)が導入されていない加工場では、1年目に12,400ドルかかり、2年目には9,900ドルかかる。GMPが導入されていれば、1年目は5,600ドル、2年目は4,000ドルで済む。この試算は低めかもしれないが、小規模工場でもこの程度の投資であれば、HACCP導入によって利益があがるので採算がとれるという。
また国家レベルでも導入のメリットは大きく、表1はFDAがHACCPの導入によって魚介類由来の疾病がどのくらい予防できるかを試算したものであるが、疾病発生数の減少によって生じる利益は年間約4500万ドル〜1億1600万ドルと予測されている。

給食現場に必要な「食品保全士」の配置
発生月日発生場所患者数原因食品病因特質原因施設


7
1月13日栃木県534 千切りキャベツ
コーンシチュー
(学校給食)
不明学校
4月21日神奈川県850 高野豆腐、アスパラ
と玉子のソテー
(仕出し弁当)
ウェルシュ菌
セレウス菌
仕出し屋
5月17日岩手県85不明(学校給食)病原大腸菌学校
6月26日徳島県673不明(学校給食)不明学校
6月30日埼玉県537不明(事業場給食)病原大腸菌事業場
10月16日千葉県790不明(学校給食)病原大腸菌学校
10月23日熊本県780不明(学校給食)サルモネラ学校


8
2月26日岡山県689使用水(推定)病原大腸菌旅館
7月11日大阪府5,591不明(学校給食)病原大腸菌学校、その他
7月29日大分県903卵焼き(仕出し弁当)サルモネラ仕出し屋
8月6日北海道559不明(弁当)病原大腸菌仕出し屋
8月15日新潟県703ゆでベニズワイガニ腸炎ビブリオ販売店
8月24日北海道1,833 ゆでホウレン草と
シーチキンあえ
(学校給食)
サルモネラ学校、その他
10月25日福岡県644 ホウレン草の
ピーナッツあえ
(学校給食)
サルモネラ学校、その他
表2.患者数500人以上の食中毒事件(厚生省)
表2は平成7、8年度に起きた患者数500人以上の食中毒例であるが、学校給食でのサルモネラ、病原大腸菌などの事例が多いことがわかる。このほか、最近の学校給食での食中毒事例にはヒスタミン食中毒が目立つ。平成9年度には3件が発生しており原因食品はいずれもカジキマグロの照り焼か竜田揚げである。その原因について考えてみると、学校給食のシステムには残念ながら微生物制御の面からは不合理な取り扱いが多くみられるようである。
たとえば微生物汚染の原因ともなる食材の無駄な荷動きが目立つ。学校給食では原料が当日の朝に調理施設(給食センター)へ解凍された状態(切り身)で搬入されるように決められていて、原料のマグロはそれまでに、市場→卸業者→解体業者→切り身業者等を転々とし、最後に調理施設から学校へ配送される仕組みになっている。この間マグロは何度も無駄な解凍、冷蔵保管と積み卸しが行われる。また、切り身状態のマグロは、作業場の都合と最終的に加熱するという安心感がある(実際にはいったん生成されたヒスタミンは調理加熱では分解されない)ためか、入荷から調理までの数時間、場合によっては調理台のそばの暑い環境中に放置されることもそう珍しくはないそうである。
かなりお粗末な衛生管理状態にもかかわらず、学校給食の現場でこのようなことにさほど疑問が湧いてこないのは、食品の安全性があまり意識されずにきたからではなかろうか。栄養士は文字通り栄養を考え、調理師は美味しい給食を作ることに熱心であるが、安全性についてはどうか。
栄養士専修学校や調理師専門学校でも、食品衛生や食品微生物関係の授業はあまり重視されていない。子供の親たちも美味しくて栄養のある給食を望んでおり、数値化しにくく目に見えない安全性にはまだ関心が薄い。しかし今や学校給食で安全性の問題は最重要項目ともいえる状況にあり、その安全性確保のためには、栄養士、調理師の再教育とともに、呼び方はともかく食品保全士とでもいうべき食品安全性確保のための専門家の配置が必要であろう。早急にこのような人材を育成するための大学の専門コースや専修学校の開設が望まれる。

望まれるわが国独自のデータベースの構築
賞味期限の設定や食中毒防止の観点から、最近、予測微生物学という新しい考え方がわが国にも流入しつつあり、食品の種類と貯蔵条件が分かれば一定時間後の菌数予測ができるようなソフトもすでに海外では開発されている。しかしイギリスや米国で開発されたソフトをそのまま日本で利用しようとすると重大な不都合に出くわす。なぜなら、これらのソフトにはわが国では最重要の食中毒菌の一つである腸炎ビブリオのデータが含まれていないからである。魚を生食する習慣のない欧米では、腸炎ビブリオは日常問題を起こすことがないため、はじめから考慮されていないのである。また欧米と日本では魚の食べ方や加工法も異なる点も多い。したがって食品中での微生物の分布や挙動についても独自の調査研究データの収集を早急に進める必要がある。