滝姫ものがたり
 慶長のころ・・・
 京都のさる高名な公家に、滝姫という美しい息女がいました。ある若侍とわりない仲になったのですが、公儀の知るところとなって、泉州堺の港から、三人の侍女とともに小船で流されました。
 瀬戸内海を西へ西へとただよううちに、松前の浜に漂着しました。その身の上に深く同情した漁師たちは、姫たちを親切に世話をして上げました。松前に永住を決めた姫は、身の回りの品を売って資金をこしらえると、自活するために魚売りをはじめました。帯びを前結びにして、裾をかかげ、頭に魚桶をのせて城下町を、「魚買わんかへー、魚買え、魚買え」と、きわめて命令的な声で売り歩いたと伝えられています。
 おたたの呼び名は、この”お滝さま”からきているといわれています。やがて、松前の女たちは、お滝さまの勤勉をみならい、貧富にかかわらず、桶を頭にのせて行商するようになりました。
なお、慶長年間といいますと、いまから400年くらい前になります。
松前漁師のお手柄
 文禄4年7月・・
 松前城主となった加藤公は、松前浦へ、毎日の魚類の調達を命じました。松前の漁夫は、藩内でもっとも舟の舵取りがうまく、漁獲技術にもたけていたためです。
 文禄、慶長の両役では、藩主の御坐船の水夫として、朝鮮遠征にも参加、これらのはたらきは、すべて無給でしたが、そのみかえりとして、漁夫たちは、藩公の領地内であれば、どこでも自由に、無税、無鑑札で漁業する特権を与えられました。
 漁師達は、この特権を利用して、いたるところの好漁場で乱獲をはじめました。魚が多量に水揚げされました。それらの魚を消化するために松前の女たちはが、行商するようになったのです。
こうして、「男は出漁、女は行商」の図式が出来上がりました。夫婦の分業が進むと、女たちは家や子供を老人にあずけ、どんどん街頭に進出していきました。もともと、松前の人口は少なかったので、労働力として婦女の力は、無視できませんでした。
    海外までも出かけたご松前婦人のパワー

(この物語は日本食品新聞社で編纂したものです)