さぬきうどん研究会・真部正敏会長のご配慮とご協力によって「讃岐うどん」の勉強をしてみましょう。ますますうどん好きになることでしょう。次のご紹介資料は、さぬきうどん研究会発行の「新・讃岐うどん入門」によるものです。

 うどんの来た道
三百年前、讃岐にうどん屋
 讃岐に初めてうどん屋が現れたのは、およそ三百年前の、元禄時代である。金毘羅宮の表書院
に保存される、六曲二双のびょうぶ絵、「金毘羅祭礼図」とよばれるものがある。そのひとつ、町方の町並みを画いたものの中に、三軒のうどん屋がある。京から招いた狩野派の絵師・岩佐清信に、秋の大祭の参道の賑いを、画かせたものらしい。
 参道を歩く千人からの参拝者たち、三百軒余りの店の様子が、細かく再現されている。三軒のうどん屋のうち二軒は接近、一軒は川の近く、木戸の内側にある。どの店もオヤジがモロ肌脱ぎ、店頭でうどんを打っている。粉をこねている店、包丁切りをしている店、めん棒で延ばしの真最中のところ、と描写が細かい。三軒とも、当時のうどん屋の看板、目じるしだつた鳴子板に、切妻屋根をくっつけたようなのを、軒先に下げている。
 江戸、京,大阪にうどん屋が出現したのは、元禄のころからといわれる。その時期にはもう、讃岐ではうどん屋が店を出していたのである。このびょうぶ風絵はね讃岐うどんに関する、最古の資料であるとともに、わが郷土が、うどんの先進地域のひとつであつたことを、語るものである。
 「和漢三才図会」という百科事典がある。赤穂義士の討ち入りから十一年後の、1713年に大阪・杏林堂から発刊されている。「小麦」の項を開いてみると、「諸国みなこれあるも、讃州丸亀の産を上とする。饅頭として色白し」と書かれている。讃岐小麦の優れた品質評価は、広く認められていた。
 「うどん」の呼び名が生まれ、今の形に近い食べものになったのは、五百年ばかり前に、室町時代中ごろといわれる。手回しの粉挽き石臼が、富有層の間に普及し始めるのは、この辺りらしい。讃岐の場合良質の小麦粉、塩が手元にそろっている。寺々の庫裡(厨房)、農家の台所で作る食べものとして、うどんが定着したのは、自然の成り行きではないか、うどん作りはやがて大衆のね生活技術のひとつになる。こんな社会的素地があったので、元禄の消費経済展開の波に乗り、台所の食べもののうどんが、商品化の道を早くから歩み始めたのだろう。